大石郁雄
作家名 | 大石郁雄 |
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作家名ヨミ | オオイシ イクオ |
英語表記 | Ikuo Oishi |
生年 | 1902年 |
没年 | 1944年12月4日 |
紹介文 | 1902年、東京生まれ。「日本のディズニー」という宣伝に負けぬ実力を持ち、代表作『動絵狐狸達引』(1933年)で一層注目を浴びる。1944年に、惜しくも洋上で戦死するが、P.C.L.漫画部、そして東宝で、次代を担う多くの後進を育てた。 |
略歴
1902(明治35)年、東京・日本橋に生まれる。(生年を1901年とする説もある)。本名は寅治。
父は上絵師であった。黒田清輝の画塾で絵を学び、松竹蒲田撮影所の字幕を描いていたが、大石郁の名で発表した『二つの太陽』(1929年)を皮切りにアニメーションの製作を本格化し、1930(昭和5)年に独立して、大石線画製作所を設立した。大石線画製作所は2年後に大石光彩社と社名を変え、1933(昭和8)年、漫画映画に乗り出したP.C.L.(写真化学研究所、Photo Chemical Laboratoryの略、東宝の前身)に吸収される。大石の代表作ともされる『動絵狐狸達引』(1933年)はP.C.L.漫画部の製作。映画人の技能審査を要請する映画法の施行(1939年)への対応を目して発行された『映画撮影学読本』(上・下巻、1940-41年)において、大石は「第十五課 線畫と漫畫の技術」を担当、執筆した。惜しくも自身は南方視察の岐路、洋上で戦死するが、大石線画製作所~東宝時代に多くの後進を育てたことでも知られ、東映動画の市野正二、芦田漫画映画製作所の鈴木宏昌(芦田巌)や漫画家のうしおそうじなど、多くが戦後も活躍している。
1944(昭和19)年、12月4日没。
なお、肖像写真の出典は『映畫撮影學讀本』下巻の口絵に掲載された執筆者近影による。
掲載作品
日本のディズニーとも謳われた才能
参考文献
生年と本名は「技能登録者 演出 撮影 名簿」『映畫年鑑 昭和17年』(日本映畫雑誌協會、1942年、5-51頁)による。
「P・C・L漫畫座談會」『P.C.L.映畫』1934年8月1日・第13号、4頁。出席者は大橋武雄、増谷麟、森岩雄、佐々木能理男、大石郁雄、杉井幸一、紙恭輔、村治夫、瀧村和男、綾部正直、小島浩。
北條希士雄「大石郁雄氏が語る線画と圖解映画」『映画技術』1942年9月号、20-21頁。
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