大藤 おおふじ 信郎 のぶろう 記念館

フィルムセンターが所蔵するアニメーション作家大藤信郎の旧蔵資料を公開し、その足跡をたどります。構成は2010年のフィルムセンターの展覧会「アニメーションの先駆者 大藤信郎」に準じています。

大藤信郎の生誕から死去までを作品と共に年譜にしました。千代紙を用いた切り紙アニメーションを経て、影絵と色セロファンを用いたアニメーション作品を発表し、多くの賞を受賞しています。

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大藤信郎記念館 年譜と作品歴

大藤信郎の手がけた作品やその背景にあったものを年代順にまとめました。また、千代紙映画の元となった各キャラクターや作品、大藤スタジオで使用されていた機材や愛用の道具を紹介しています。

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大藤信郎記念館 資料室

大藤信郎の略歴

東京・浅草で蓄音機の録音スタジオを経営する一家に生まれる。8人きょうだいの7人目で、本名は信七郎。国産動画の創始者のひとり幸内純一の手ほどきを受け、1926年に江戸千代紙を用いた切り絵アニメーションの第1作『馬具田城(ばぐだじょう)の盗賊』を発表する。この“千代紙映画”が注目されて、21歳の時に設立した「自由映画研究所」は1927年に「千代紙映画社」に発展した。そのほかにセル画の作品も製作し、村田安司、山本早苗(善次郎)らとともに国産アニメーションの礎を築いたが、やがて影絵の技法に接近、戦後は影絵に色彩セロファンを交えた独自の手法に取り組んだ。とりわけ1952年の『くじら』や1956年の『幽霊船』は海外の映画祭で高い評価を浴び、日本のアート・アニメーションの存在を海外に知らしめた。姉・八重の献身的な助力により、組織化・企業化の進むアニメーション映画界にあって個人製作を生涯貫いたが、長篇の大作『竹取物語』と『ガリバー旅行記』の完成前に61歳で他界した。

逝去後、大藤の遺品は日本大学芸術学部で保管されていたが、1970年のフィルムセンター開館に伴い、翌年、日本大学芸術学部と映像文化製作者連盟、八重氏によってフィルムセンターに寄贈された。