政岡憲三

作家名 政岡憲三
作家名ヨミ マサオカ ケンゾウ
英語表記 Kenzo Masaoka
生年 1898年10月5日
没年 1988年11月23日
紹介文 1898年、大阪生まれ。画家を目指して東京へ出るが、戻った京都で映画の仕事に従事する。セル画やトーキーの導入、自らも演奏者となった専属楽団など、独自の美的感覚を発揮し、アニメーションに様々な面から新たな可能性を吹き込んだ。
政岡憲三

略歴

1898(明治31)年10月5日、大阪に生まれる。
京都市立美術工芸学校で日本画を学び、洋画家になるべく東京へ出るが、再び京都へ戻り、牧野省三のもと、映画『日輪』に衣装デザインで参加。1927(昭和2)年には京都下加茂に自身の事務所、呑平プロダクションを立ち上げ、児童劇映画『貝の宮殿』(1927年)を自主制作した。また、瀬川瑠璃之助という名で俳優もしている。1929(昭和4)年からは日活太秦撮影所の社員となり、かねてより興味のあったアニメーション製作に着手。デビュー作『難船ス物語第壱篇 猿ヶ嶋』(1931年公開)は好評を博した。1932(昭和7)年に独立して京都に政岡映画製作所を設立し、松竹蒲田撮影所所長であった城戸四郎の依頼で、日本初の国産トーキーアニメーション『力と女の世の中』(1933年)を完成した。この年の12月には、社名を「政岡映画美術研究所」とし、録音室も備えたモダンな2階建てビルを新築。当時まだ高価であったセル画を導入して、アニメーションの質的向上や新たな美的表現を試みた。しかし、採算のとれない製作のためにスタジオを手放すことを余儀なくされ、政岡は1941(昭和16)年に松竹の動画研究所に入社した。ここでは代表作『くもとちゅうりっぷ』(1943年)を発表、戦後は山本早苗らとともに新日本動画社(のちの日本漫画映画株式会社)に参加するが、非公開となった『桜』(1946年)1作品のみを作って同社を離れ、山本とともに日本動画株式会社(のちの日動)を起こす。猫の「トラちゃん」シリーズ(1947‐50)などを発表するが、資金難が続き、政岡は漫画や絵本へと活動の場を移した。
1988(昭和63)年11月23日没。

掲載作品

洗練されたビジュアルと優雅な動きのハーモニー

参考文献

萩原由加里『政岡憲三とその時代 「日本アニメーションの父」の戦前と戦後』青弓社、2015年3月27日。NFC図書:請求記号Z-497。