山本早苗

作家名 山本早苗
作家名ヨミ ヤマモト サナエ
英語表記 Sanae Yamamoto
生年 1898年2月6日
没年 1981年2月8日
紹介文 1898年、千葉生まれ。北山清太郎に誘われて、アニメーション製作を開始。戦前は官庁からの受託作品を多く手がけた。戦後、同時代の作家たちがアニメーションから離れていくなか、東映動画とともに生涯にわたって業界を支えた。
山本早苗

略歴

1898(明治31)年2月6日、千葉に生まれる。
出生名は戸田善次郎、のち妻の姓の山本に改称し山本善次郎となる。早苗は画号。家業である商売の道に入るため丁稚奉公に出されるが、画家への夢を捨てきれず、度々家出をする。川端画学校や巽画会横浜支部に学び、1917(大正6)年、巽画会講師であった北山清太郎に誘われて、アニメーション製作を開始した。1921(大正10)年、日活向島から独立した北山について北山映画製作所に参加、『教育お伽漫画 兎と亀』(1924年)の作画・演出を担当した。1925年(大正14年)に山本漫画映画製作所を設立、『姨捨山』(1925年)以後は、官庁からの受託が多かった。戦後すぐ、関東のアニメーション関係者100余名を集めて新日本動画社を設立、日本漫画映画社と改称し、政岡憲三の『桜』(1946年)を製作するが、作品は公開を見ず、翌年、山本は政岡とともに同社を辞して日本動画株式会社(のち東宝図解映画を吸収し、日動と改称)を設立した。やがて日動は東映傘下となり、1956(昭和31)年8月に東映動画株式会社(現在の東映アニメーション)として新発足。山本は1964(昭和39)年に東映動画を退社した後も、山本アニメーション研究所(のちのチルドレンズ・コーナー)を設立し、東映動画の下請け製作を行うなど、アニメーション界で後進を育て続けた。
1981(昭和56)年2月8日没。

参考文献

山本早苗『漫画映画と共に:故山本早苗氏自筆自伝より』宮本一子、1982年3月15日。NFC図書:請求記号D-227、TS-227。