村田安司

作家名 村田安司
作家名ヨミ ムラタ ヤスジ
英語表記 Yasuji Murata
生年 1896年1月24日
没年 1966年11月22日
紹介文 1896年、横浜生まれ。映画館の看板描きなどをしていたが、震災後に加わった横浜シネマ商会で、50タイトルにのぼる作品を世に送り出し、その妙技で切り紙アニメーションの頂点を極めた。
村田安司

略歴

1896(明治29)年1月24日、神奈川・横浜に生まれる。
幼い頃から絵が好きで、中学卒業後は映画館の看板描きをしていた。関東大震災後、旧知であった佐伯永輔の横浜シネマ商会に入社。住まいも近く、画学生としての交流もあった山本早苗にアニメーション手法を習いに行くが、結果的には独自に試行錯誤をすることとなる。デビュー作の『猿蟹合戦』(1927年)、以後数々の作品を切り紙の手法で製作、セルアニメーションとも見紛う高い技術が評判であった。横浜シネマ商会では、企画脚本・青地忠三、撮影・上野行清と組んで、アテナ・ライブラリーシリーズ(1925-39)のアニメーション作品を担当、約50作品を世に送り出した。1937(昭和12)年に同社を退社して、横浜市内に村田漫画製作所を設立するが、会社は1941(昭和16)年に日本映画社に吸収合併、村田は美術課長として終戦まで在籍した。戦後は、山本早苗らが設立した日本漫画映画社に専務として入社している。1956(昭和31)年に再び独立して村田製作所という個人会社をはじめ、主にCMやPR映画の製作を行った。
1966(昭和41)年11月22日没。

参考文献

岡本昌雄「村田安司と漫画映画 第1回 昭和初期のアニメーション」『映画テレビ技術』1991年11月号、42-43頁。
岡本昌雄「村田安司と漫画映画 第2回 処女作の劇場公開まで」『映画テレビ技術』1991年12月号、60-61頁。
岡本昌雄「村田安司と漫画映画 第3回 「切り紙法」について」『映画テレビ技術』1992年1月号、66-67頁。
岡本昌雄「村田安司と漫画映画 第4回 漫画映画の撮影」『映画テレビ技術』1992年2月号、60-61頁。
岡本昌雄「村田安司と漫画映画 第5回 トーキー漫画時代」『映画テレビ技術』1992年3月号、56-58頁。
岡本昌雄「村田安司と漫画映画 第6回 線画タイトルの先駆者」『映画テレビ技術』1992年4月号、50-51頁。
岡本昌雄「村田安司と漫画映画 第7回 漫画家の裏おもて」『映画テレビ技術』1992年5月号、60-61頁。
岡本昌雄「村田安司と漫画映画 第8回 戦時中の村田安司」『映画テレビ技術』1992年6月号、120-121頁。
岡本昌雄「村田安司と漫画映画 第9回 戦後の村田安司」『映画テレビ技術』1992年7月号、54-56頁。
岡本昌雄「村田安司と漫画映画 (終) 村田安司・年譜/作品目録」『映画テレビ技術』1992年8月号、47-49頁。